不思議な夫婦の話。精神病の家族に疲れた人へ。

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31歳になってもまだまだ独身のおせりさんです。本当は旦那の話でも書きたいところですが、特出すべきネタがないので、今日は実家の家族について書こうと思います。

自分は一人っ子です。社会人になって家を出るまで、両親と3人で暮らしていました。父は繊細で細かいことを気にする奥手なタイプ、母はよくも悪くも鈍感で大らかなタイプ。水と油の二人です。

実は父は私の物心がついた時から病んでいました。ノイローゼに統合失調症が合わさった、キレまくるタイプの精神疾患です。

考え方自体はまともなのですが、対人恐怖で伝える力に欠けていて、コップから我慢が溢れると大爆発してしまうのです。それは桃鉄で言うとキングボンビー。この世の終わりです。

どこかの誰かの話だと思って、同じ思いをしている方に読んでほしいです。

目次

幼少期の思い出

わたしは6歳くらいまでは小さなアパートで暮らしていました。当時35歳くらいの父はほとんどの時間仕事に出ていて、一緒に過ごした記憶はあまりありません。

たまに家に帰ってきたかと思えば、暴れたり大声で叫んだりするので、正直怖かった思い出しかないです。

家の中に真ん中がべこんとへこんだ変な形をした石油のファンヒーターがありました。父がキレた時に、かかと落としをして、形が変わってしまったのです。

身長180センチの成人男性が全力で大暴れすると恐怖です。妻と小さな子どもの前で普通の人は暴れません。だから病気なのです。お皿も何枚も割れたし、母の顔にアザができたこともありました。完全にアウトです。

4歳くらいのわたしは夫婦喧嘩が始まったらそろりと寝室に避難しました。幼少期から今に至るまで自分のスタンスは変わらず、「これは二人の問題だから、わたしには関係ない。関わりたくない。」です。

ドライな考え方かもしれませんが、特に子どもの頃は自分の身を守るためにもその場を離れざるを得なかったのです。でもお母さん大丈夫かな、と隙間から少しだけ様子を伺っていました。

そんなこんなで、小さい頃は父は悪者だと思っていました。

一軒家に引っ越し

7歳になった時、一家は一軒家に引っ越しました。自ら言うのは気が引けますが、一般よりも裕福な家庭だったと思います。中高一貫校に通いながら家庭教師や塾、ピアノも習い、たくさんお金をかけてもらいました。

父は商売人の家系です。もともと祖父が板金工業の会社を経営していて、社員が50人くらいいました。長男である父はその会社を継ぐことになっていたのです。

当時はブラック企業なんて言葉がない時代です。真面目な父は、きつい性格の祖父のもとで昼も夜も休日も働きました。

ある時、父はてんかんになって倒れました。突然意識を失って倒れて震えるやつです。その頃は重度の不眠症にもなっていました。理由がわからず医者に行くと、精神科を勧められてやっと病気に気づいたのです。

すでに奥手で優しかった性格は周りを傷つける凶暴な性格に変わっていました。




結局病気がひどくなってしまったり揉め事もあったりで、父は祖父の会社を継ぎませんでした。でも、ずっと親の会社で働いてきて、一般企業の会社員としての経験がなく、さらに精神病を抱えている人をどこも雇おうなんてしません。

父は起業しました。中小企業が10年続く確率はかなり低いと言われていますが、20年だった今でも荒波に負けず、世の中の動向を読みながら会社を続けているところは尊敬している部分です。

ピアノについて

父はピアノが好きで、本当はピアニストになりたかったのです。音楽大学に行きたかったけど、家業を継ぐためにその道は諦めることに。

ショパンが好きで、ショパンが愛用したプレイエルというピアノを買い、家にいるときは四六時中ピアノを弾いていました。車に乗る時もクラシックしか流しませんでした。

なので、なぜか家族の前ではJ-POPをかけてはいけないような空気感がありました。

わたしもピアノを習わせてもらったので、CDを聴きながら表現について語りあったり、楽譜を見ながら弾き方を教えてもらったりと、ピアノは親子の共通の趣味になりました。

ピアノの音色には人の感性が出ます。

病気がひどかった時の父は鍵盤を叩きつけるような弾き方をしていたので、テクニックはあれど、お世辞にも美しいとはいえない騒音でした。でも紆余曲折を経て、今彼はようやく穏やかで素敵な音色を奏でるようになりました。

ちなみに自分は楽譜が読めないので、全部覚えてから弾くタイプ。鍵盤を間違ったりはするけど、カンタービレという歌ったように弾くことが得意だったので、ピアノの先生からはノダメちゃん(昔流行った漫画)と呼ばれていました。

いつもクラシックしか聞かない父が、倉木麻衣ときゃりーぱみゅぱみゅにハマっていたのを知った時は衝撃的でした。




思春期になって

父の大暴れにより、何度つらい思いをしたかはわかりませんが、思春期の頃くらいからふと母親にも原因があるのではと考えるようになりました。

母親はよくいえば天然、悪くいえば空気が読めないタイプの人間で、繊細な父親の感情を読まずに火に油を注ぐような発言をしてしまうのです。

喧嘩の理由は本当に些細なことです。たとえば、うなぎのタレをご飯の上からかけるのか、ご飯の下にかけるのかなど。この喧嘩は本当に酷い状態になりました。

いつもと同様に自分は別の部屋に避難していましたが、母が泣きながら、顔に唾を吐かれた!と駆け寄ってきました。

別れた方がいいんじゃない?と言いましたが、「あんたもいるし、今さら一人でなんて生きていけないよ」とのこと。その時、わたしは自分は絶対にこうなってはいけないと強く思いました。




父が暴れた後は、家の中は割れたお皿やグラスが散乱しているので危険です。みかんを勢いよく壁に投げつけられ、壁が汚れてしまったこともありました。食べ物は粗末にしたらいけません。

わたしは自分でやったんだから自分で片付けをさせるべきと母に主張しましたが、後片付けはいつも母がやっていました。惨めだなと思いました。

どうしてこうなるんだろうか。

声と目つきの変化で、父が不安定な時はすぐにわかります。そういう時、わたしは彼を「父」というよりかは「病人」というフィルターを通して接してきました。とても気を遣いますが、そうすると逆鱗に触れることはありません。

一方、母はどんな時も彼を「主人」というフィルターで見続けます。これはある意味平等ではありますが、ヒートアップする相手に真っ向から向かったところで逆効果でしかありません。

それに、困ったことに、母は発想が論理的ではないのです。女性らしいというか、お笑い芸人だったら面白いボケ担当になれるのですが、喧嘩していて相手の感情がたかぶっている時に的外れな発言をしてしまうと、さらなる事態を引き起こしてしまいます。

真面目でコミュニケーションが上手くない人間が、周囲の環境に追い込まれ過ぎた結果こうなってしまった。「原因と結果」なのかなと考えるようになりました。

職場にしかり、家庭にしかり、もう少し周りの環境が本人に寄り添っていたら、もう少し本人が強い人間だったら状況は変わっていたのかもしれません。

精神病の親を持つ子どもたちへ

大人になったら1年はあっという間に過ぎていきますが、子ども時代の一年はやけに長く感じます。永遠なんじゃないかとさえ感じます。

もちろん楽しい思い出もたくさんありますが、当時の自分は言いようのない閉塞感を感じていて、自分にはいいことなんて起こらないんだという思考になっていました。学校のみんなにもこんな悩み相談できるわけなく、自分の境遇を憂いたりもしました。

このような環境下において、わたしはなぜグレなかったのか。それは、深入りしようとせず、まずは自分を守ることを一番に考えていたからかもしれません。

2人とも不器用ながらも愛情を持って接してくれていたし、苦悩している様子やいいところ悪いところ、尊敬できるところも間近で見てきたというのも、もちろんあります。

私は両親を嫌いなわけではなく、感謝しているし家族として大事に思っていますが、いい関係性を続ける上で、程よい距離感はとても大事だと思っています。

社会人になって実家を出てからは、自分は自由に自分の人生を歩めるようになりました。

自分で働いて、自分のお金で生きていくことは難しいけれど、生命の危険を感じたり、暴言により悲しい気持ちになったりすることはありません。付き合う人も選べるし、仕事も住まいも選べます。

いろんなことに動じなくなり、もはや怖いものがなくなったこと、考える力がついたことはこういった経験があったからこそです。

もし同じ思いを抱えている方がいらしたら、あなたは一人じゃないんだよと伝えたいです。子どものうちは環境を選べず苦しい思いをするかもしれないけど、試練だと思ってどうか希望を捨てないでください。

自分を幸せにするのは自分です。世界中に味方がいないと思っても、自分があきらめなければ絶対にひとりは自分の味方がいるのです。

理不尽なこともあるかもしれませんが、本来、もとから邪悪な人はいないはず。なぜこうなってしまったのか、相手の背景を考えると違うものが見えてくる可能性もあります。自分を大切にしてください。

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どうしてもわからないこと

神経質な父と鈍感な母ですが、どうしてもわからないことがあります。

それは必ず仲直りをするということ。

喧嘩をする度に父は「お前とは離婚する」と言って暴れまくり、離婚届にもサインしたりと地獄絵図になるのですが、(ここでも母は絶対に離婚したがりません)時間が経って父が落ち着いて来ると、翌日にはケロッと二人とも何事もなかったように生活するのです。

私が妻ならこの関係性を続けようとは全く思いませんが、不思議なことに二人は離婚せず、30年以上も夫婦生活を続けています。これが愛情なのか、共依存なのか、二人の間に何があるのかわたしはまったく理解できません。

どんなひどい有様になっても必ず仲直りをするので、わたしはもう母の悩みを聞かなくなりました。正確には聞き流す等になりました。どんなに言い分を主張しても母も父も自らその状況を選んでいるのです。

母が父の神経を無邪気に逆撫でしてしまい、父が攻撃的になりミスマッチが生じてしまう事はいにしえからわかっていることです。

二人の現在

60歳を過ぎ、父はパワーダウンしました。昔のようにキレる体力がないし、たまに怒ることはあるけど、ノイローゼも昔よりかは格段に落ち着いてきました。しかし、母のとんちんかんさはパワーアップしている気がします。

スピリチュアルにずぶりと浸かっているので「UFOが来たよ」「水晶に虹が入ったよ」と動画の視聴をしつこく強要してきたかと思えば、週刊誌にあるような芸能人のゴシップを永遠に語り出し、健全な自分でもずっと一緒にいると発狂しそうになります。もはやこれは母の無意識のうちの復讐なんじゃないかとさえ思ってしまいます。

まぁスピリチュアルなものを心の拠り所に母も頑張ってきたのだと思います。

最近、二人の緩衝材として、父が犬を飼うことを提案したら母が反対し、また揉め事になっているようです。結局二人は仲直りすることはわかっているので、わたしは我関せずです。

世の中の夫婦は簡単に離婚するのに、なぜ二人はともに居続けるのか。永遠の謎です。

一つ言えることは、どんなことがあってもずっと一緒に居続けられる人にわたしはまだ出会えていないということです。




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