88歳のしげちゃんがアーティストになったわけ

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近所のお友達にしげちゃんというお友達がいます。彼女は絵や書道を嗜む88歳のアーティストです。

まず、驚くのはその見た目。88歳には到底見えない若々しさで、ふわふわピンクのパンチパーマがとってもおしゃれ。

見た目はまったくおばあちゃんではなく、エネルギーが固形化したような人で、マシンガントークでいつも面白いお話をたくさん聞かせてくれます。

若く見えますね、というと「戦前の女です。」と一言。

銀座の画廊で38年間、毎年個展を開いていたのよ。仲間もたーくさんいたけど、みんな死んじゃった!ガハハと豪快に笑います。

その気前のよさでお願いごとを何でも引き受けてしまうので、いろんな美術関係の団体の事務局長を長年やってきたのだとか。

今までずっと専業主婦で、働いたことはないというしげちゃん。現代人からするとつい羨ましいなと思ってしまいますが、88年の間にはいろんな苦労があったようです。

絵描きを始めたのは27歳の時で、今から60年くらい前とのこと。

彼女のアーティスト活動はなぜ始まったのか。今日はその背景についてインタビューしました。

目次

子ども時代

しげちゃんは東京に住むお金持ちのお嬢様でした。しかし、財閥解体により持っていたはずの財産を国に取られ、東京の家も空襲でなくなってしまいました。

戦時中、一家はご両親の出身地である富山に家族で疎開していたそうです。

3月10日には東京大空襲があり、一晩で10万人が亡くなるという大規模な被害がありました。それでもなお、1ヶ月と経たないうちに39歳だったお父様に赤紙が来たのだとか。これには大変な理不尽を感じたそう。

しげちゃんのお母様の話

しげちゃんのお母様の実家はもともと田舎の貧しい暮らしでしたが、成功している人がいるという話を聞き、本当は好きな人がいたけど写真1枚で富山から東京に上京。しげちゃんのお父様と結婚し、裕福になりました。

15年の間に子供が4人産まれ、よかったかなと思っていた矢先、旦那様が戦争に行って帰らぬ人となってしまったのです。

お母様は32歳という若さで夫を戦争で亡くし、子供4人が残りました。そして終戦を迎えました。

ある日、お母様はしげちゃんに突然「母親を辞めさせていただきます」と言ったそうです。

自分だけ親を辞めるなんて納得できないとしげちゃんは思い、「みんな未亡人になって同じ境遇なのに、あなたは頑張れないのね」とお母様に言うと、「うん、いやだ」と言われたのだとか。

それからお母様は料理も洗濯も、家事をすることは一才無くなったそうです。

長女だったしげちゃんは10歳にして主婦になりました。

突然の宣言に戸惑いつつも、年下の妹や弟たちには嫌なことはさせたくないと決意。朝6時に起きて、料理、洗濯、薪の用意など、すべての家事をひとりで頑張ったそうです。

悔しいから絶対に根を上げたくなかったというしげちゃん。家族がいて、不幸を感じることはなかったけど相当大変だったと言います。

10歳で主婦になったしげちゃん

漁師だったおじい様は漁業から帰ると、余ったお魚を持ってきたそうです。しげちゃんは朝早くからお魚を3枚に捌きお刺身を作りました。

当時はもちろん洗濯機もありません。洗濯をする時は川遊びをしたりして、自分が惨めだと思わないように工夫していたそう。

しげちゃんはお母様のことを、「世界で一番嫌な女、嫌いな女、馬鹿な女」と言います。しかし、そんなお母様の最期6年間はしげちゃんが共に暮らし、面倒をみたそうです。

小学校での出来事

戦争が終わったらしいということで、山の中から街に住むおばあちゃんのところに戻ってくると、軍事工場に行っているはずの人が家の庭を掃いていて、戦争が終わったんだ!と実感したのだとか。

夏休みが終わり、9月になって学校に行くと先生がこう言いました。「こないだと皆さんとお会いした時は軍国主義だったけど、今は民主主義になりましたのでこれからは違います。」

小学4年のしげちゃんは頭が良くてヤンチャな子。「先生!民主主義がなんなのか、よくわからないのでもう少し具体的に言ってください。」と食ってかかって質問をしたそう。

どういう説明があるのかな、と思い待っていましたが、若い先生は何にも言えなくなってしまい、泣いて職員室に行ってしまったのだとか。

尼寺で過ごした高校時代

終戦から5年が経ち、しげちゃんが高校1年生になった時、お母様は東京に行きたいと言い出し、一番下の弟と妹をつれて東京に行ってしまいました。

当時は戦争未亡人会という会があり、しげちゃんは里子制度を利用して富山に残ることにしました。

里親は良い方でしたが、遠方に住んでいる一人娘の看病をするために家を空けることになり、別の方に預けられることに。なんとその先が、尼寺だったそうです。

1年間お寺で尼さんと暮らし、高校を卒業したタイミングで、しげちゃんはお母様がいる東京の武蔵小山に戻りました。

東京 武蔵小山でのこと

お母様は意地悪なわけではないけれど、わがままな人だったそう。武蔵小山に浜田屋という鰻屋があり(今でもあるそうです)そこにみんなで行った時のこと。

子どもたちは焼き魚を、お母様だけうなぎを頼みました。一口ちょうだいとしげちゃんが言うと、「うなぎを食べたかったら毎日食べさせてくれる男を探してとっとと出てけばいいのよ」と兄弟たちの前で突っぱねられたのだとか。

しげちゃんはその時、世間知らずの田舎者がいきなりお金持ちになってしまったからダメになってしまったんだ…と悟り、つい親に反論しそうになったそうです。そんな自分を惨めに思ってしまったと言います。

そんな出来事があってか、妹たちも早く結婚したようです。

結婚したしげちゃん

しげちゃんは、「結婚は人生で一番のギャンブルなのよ」と言います。

初めの結婚は22歳でしたが、色々あって離婚。それから2年後に2回目の結婚をしました。お相手は半導体を作る技術会社の責任者でした。

27歳の時、しげちゃんは旦那様に子どもを10人作ろうと言いました。そしたら、一人二人は面白い子どもに育つのでは、と。こんな斬新な提案にびっくりしたという旦那様。

2ヶ月の沈黙の後、あの話は無しにしようと言われたそうです。「僕は生きていることすら恥ずかしいのに、子どもを10人作ったら恥ずかしくて生きてられないよ。」

子どもが欲しかったしげちゃんは納得がいきません。1年もの間、二人で話し合いをし、結局はしげちゃんが妥協する形で話が落ち着き、二人は子どもを作らないという選択をすることになりました。

「あなたは好きなように生きればいい。僕は一才外でお酒飲まないから給与は全部あげる。結婚している女房と思わなくていいから、世界一いい親友ということにしよう。」と旦那様。

しげちゃんは、夫婦で「世界一いい親友」という関係性もいいんじゃないかなと思ったそう。今でも子どもがいないことに後悔はないと言います。

しかし、いざ好きなように生きてくれと投げ出された時に、どうしたらいいものかわからない。そこで、人生で一番難しく辿り着けないものに挑戦してみようと考えたそうです。

考えた末、行き着いたのが「アート」でした。

27歳の時、しげちゃんは絵を描き始めました。そこから彼女の大冒険が始まります。

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